2021年02月02日

私の大嫌いな先生

最近「教師からの性被害」を泣き寝入りしない・という風潮になってきている。
実は私も性被害・とはいかないけれど、担任の先生から似た経験をされたことがある。
この話をしたのは過去に主人と、幼少期に性被害を受けたことのある人に1回ずつだけ。
水の塊を飲むように、声に出したくても出せなかった。
声で出せないなら文章でだったらどうかと。
40年経ってどうして全世界に向けてカミングアウトしようと思ったのか。
それはどうか被害に気付いてほしい、シグナルを発してることに気付いてほしいことを
知ってほしいからだ。
長文になるが、お許しいただきたい。
私が小学1年生の担任の先生はベテラン先生。親ならきっと教育熱心な「いい先生」だと
思う。
夏休みに入ってすぐ、先生が私の家にアポなしでやってきた。
先生の目の前で私にひらがなの「な」と「も」を書いてみろという。
私はこの2つの書き順が違う。「な」は矯正したが「`」が最後になり「も」は書き順が
逆でこちらは未だに直っていない。
おそらく黒板の板書で書き順がおかしいことに気づいたのだと思う。
母はすっかり「いい先生」と信じて疑わなかっただろう。
家庭訪問でなく家に来たことが恐ろしかった。私は先生が憎悪になった。
小学校では夏休みの間に在校児童を対象にプールを開放していた。
参加カードのようなものがあり、行くとハンコか何か押されるらしい。
が、私は学校へ行くと先生に会う可能性があると恐れ、一度も行かずに逆方向の公営プール
に毎日のように通った。

秋になり、また先生がアポなしでやってきた。幸い私は家におらず、近所の友達と遊んで
いたら、姉と姉の友達がやってきて、先生が来た時の様子を語りだした。
「せっかく俺のサイン色紙をあげようと思ってたのに、って怖い顔してたw」
「今度いなかったら殺してやるって、包丁持ってたw」
もちろん2人の質の悪い冗談なのだが、話を信じたわけではないが先生がまた家に来たこと
がとても恐ろしく、この日は家に帰りたくなかった。
祖父が応対したそうだが「家に上がって茶を勧めようとしたが、お前がいないと言うと
そのまま帰った」そうだ。来た理由はわからない。

冬。ある月曜日、同級生2人が「昨日先生とスケートに行った」と楽しそうに話した。
先生から誘ったそうだ。
その日の授業中、先生がそのスケートの話を始めた。
私の机の列と隣の列の間を、スケートを滑る動作をしながら楽しそうに話す。
私には先生が何を言い出すのか想像できた。そして的中した。
先生曰く途中で転倒しそうになり、とっさに近くにいた女性に掴まってしまった、転倒
しそうな時の動作を「おっとぉ」とにやけながら私の腕を掴んだ。
そして「その時の女性の顔が××さん(私)に似ていた」と教室にいた児童たちから笑いを
取ったが、私は嘘でも(に違いない)似てると言われたことより、触られたことが嫌で嫌で
たまらなかった。
この時来ていた服、夏休みにアポなしで来た時に着ていた服は2度と着なくなった。

すっかり先生=世界一の憎悪の存在になった冬のある日。事件は起きた。
給食の時間に先生が自分の机に3人ぐらい、一人ずつ順に呼び
「〇〇さんはお父さんが好きですか」「お母さんが好きですか」と質問する。
もちろん「好きです」と答えさせてすぐ解放する。
私も呼ばれたのだが、なぜか私だけは「××さんは先生が好きですか」と直球を投げて
きたのですかさず
「嫌いです」
ピッチャーライナーで返して席に戻った。
まずいこと言ったなとか、給食がのどを通らなかったという覚えはなくむしろ
「あ~すっきりした」という記憶がある。これで戦いが終わったと思ったのだろう。

給食が終わって次の授業を、先生は私を前に立たせてさらし者にさせ
「××さんは『先生が嫌いだ』と言ったが、どうしたらいいでしょう」
という討論会に変えてしまった。
討論会というより私にとっては公開処刑で、内容はほとんど覚えていない。
私がなぜ先生を嫌いと言ったのか・と弁明する時間も隙も全く与えられず、恐怖と怒りで
ずっと泣き通しだった。もっとも泣いていればうまく話せないし、どうしても聞いてほしい
ことほど言葉が出ないのだが。
ちなみにこの時の処刑にいた同級生数人は高校まで一緒だったが、皆その後一度たりとも
この日の話をしたことはない。友情か忘れてるだけか。いずれにしてもありがたかった。
私は途中からなぜか独り廊下に立たされた。皆が掃除を終えて放課後になるまで。
先生からやっと解放される際「このことをお父さんとお母さんに言っていい?」
と訊いてきたので、大きくうなづいた。私が苦しんでいることを両親に知って欲しかった。
でもやはり私の口から真実は言えないまま現在に至る。

夜が来た。我が家は子供は夜9時になると自室に行くようにしつけられてた。
その時間までは先生は来なかったが、階段上から先生が来てる気配を察した。
翌日。子育てに全く無関心の父は別として、母は朝は何も言わなかったが、午後になって
「何で先生のこと嫌いって言ったの?」と訊いてきた。
「…太ってるから…」

「そう…」とだけ母は言った。それ以上問い詰めることもなかった。
先生が私にとってどんなに恐ろしい存在か、何をされたのか、知ってほしかった。
だけど言えない、小さな声で苦し紛れの言い訳をするのが精一杯だった。
大人になった現在でも、私は本当に、本当に聞いてほしいことがどうしても言えない。
冒頭に書いたが、水の塊を飲んでいるように言葉を発せなくなる。
この事件がきっけかだと断言できる。
ちなみに先生のアポなし訪問はもう一度あった。やっと先生から解放された春休みに。
非常識にも夕食時に来たので、私たち子供は全員自室に避難した。
母と何を話したかはわからない。私も聞かないし母も話そうとしない。

その年の通知表に、学校生活での評価の一つに最低を下された箇所があった。
「あんたが先生のことを嫌いって言ったからよ」と母は笑っていた。
それどころか母はどうやら祖父にまでこの話をし、祖父と叔父(祖父の義弟)は酒を飲み
ながら
「あの先生はいい先生だ、国会議員になってもいい、だけどこの子は嫌いと言ったんだ」
と笑いの種にした。
なぜ私がそう言ったのか、誰も理解しようとしてくれない…。
1年時の授業や学校行事について、特に授業は私は全くと言っていいほど記憶がない。
これが2年生になると数々の記憶が蘇ってくるのに。
幸い友達も多く学校へ行きたくないということはなかったが、先生の不気味な接触がこれ
以上増えたら間違いなく私は不登校になっていただろう。
2年生になり4月から私は新設校に移ることになり、これで先生とはおさらばだ!と喜んだ
のも束の間。先生もついてきて、結局6年間一緒の学び舎にいる羽目になった。
その学校には私を含め姉弟3人通ったが、誰の担任にもならずに済んだ。
新学期に同学年の担任ですらを持つことがないかどうか、内心ヒヤヒヤしていた。
先生とは校内でもできるだけ姿を見ないよう、避けるようにしていた。
もちろん今でも会いたくない人物の一人だ。

去年だったか、一つのことに気が付いた。
先生が初めてアポなしで来た時から処刑の頃にかけて、奇行を複数していた。
思えば精神が非常に不安定だったことからだと思う。
不安やストレスをどう発散、解消していいのかわからない。
どうか大人は子供のいつもと違う行動・表情・態度など、SOSの兆候を
見逃さないでほしい。

これを訴えたいために、40年自分の中で封印してきたことを公にした。
私の経験が生きてくれれば幸いだ。
posted by アパート管理人 at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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